しばうら人 ハンドボール部OB 座談会企画

2022/11/25
  • しばうら人

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ハンドボール部OB座談会企画
主要大会で優勝39回、準優勝22回!
ハンドボール部栄光の歴史を振り返る

芝浦工業大学ハンドボール部は1959 年に全日本学生選手権大会、全日本総合選手権大会、全日本学生王座決定戦、全日本室内総合選手権大会の4 大タイトルを獲得。日本代表選手も輩出し、その名を全国に轟かせました。今回は全盛期を支えた卒業生が当時を振り返り、思い出を語り合います。

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塩川 安賢さん
建築工学科 1961年卒業
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田口 侑義さん
工業化学科 1961年卒業
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中村 宏さん
土木工学科 1962年卒業
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池田 茂郎さん
電気工学科 1962年卒業
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池田 鉄哉さん
電気工学科 1965年卒業
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河村 登さん
土木工学科 1985年卒業


社会人チームにも勝利し、4大タイトルを独占!

――芝浦工業大学ハンドボール部は長い歴史と輝かしい戦歴を持つ運動部とお聞きしています。まずは創部のきっかけから教えていただけますか?

田口: ハンドボール部は1950年春、当時東大文部教官だった高嶋洌先生が芝浦工大の体育教室の非常勤講師になられたことを機に、建築学科教授だった三浦元秀先生に部長をお願いして創設されました。創部3年目ぐらいから全国の有力高校より新入部員を迎えるようになり、急速に強くなっていきました。我々世代の部員は全員が競技経験者で、全国の強豪校から芝浦工大に集まったメンバーです。
塩川 僕は高校3年の冬に芝浦工大が全日本室内総合選手権で優勝したのを見て、「ハンドボールをやるなら日本一のところへ行きたい!」と思って入学しました。ハンドボールが11人制から7人制に変わって、すぐの大会でしたね。

――ハンドボールといえば7人制のイメージですが、11人制の時代もあったんですね。

中村 ハンドボールはもともとヨーロッパが起源のスポーツで、7人制は北欧、11人制はドイツで誕生したといわれています。11人制はサッカー場と同じ広さのコートで屋外、7人制は今と同じ屋内のコートで競技します。
田口 北欧は寒さが厳しいから屋外では難しいんだよね。ちょうど我々の頃に世界的にも7人制へ移行していきました。
塩川 そして僕たちが在籍していた1959年に、芝浦工大は全日本室内総合選手権だけでなく、全日本学生選手権、全日本学生王座決定戦、全日本総合選手権の4大会のタイトルを独占したんです。
中村あのときはいっぱいお祝いしてもらったね。
田口11人制でも7人制でも日本一になれました。
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(左から)池田(鉄)さん、中村さん、田口さん、塩川さん、池田(茂)さん、河村さん

厳しくも実り多い合宿所生活。 やり抜いたからこそ今がある

――大学チームはもちろん、社会人チームにも勝利しての日本一ですね。 なぜ、そこまで芝浦工大は強かったのでしょうか?

塩川: なんといっても合宿所で寝食をともにして、厳しい練習を積んだことが大きかったね。
田口: 当時は駒沢公園に合宿所がありましてね。6畳間に学生4人が共同生活ですよ(笑)。1年生は押入で寝ていました(笑)。
中村:1年生は交代で炊事当番もします。朝起きて、まず先輩の布団を上げて、部屋を掃除してから洗濯。それから授業や練習ですよ。
田口: 合宿所の朝食がよかったね(笑)。白いごはんに味噌汁、納豆、タクアン。納豆には必ず卵の黄身と鰹節とネギがついた(笑)。
塩川:植物性たんぱく質が摂れるから本当に身体によかった(笑)。
池田(鉄):近くにライバル校の合宿所があったんですが、そこは味噌汁とタクアンだけだったらしいですよ(笑)。「卵の黄身がつくなんて羨ましい」と言われた記憶があります(笑)。
塩川:当時60人の部員がいたんですが、まだ電気炊飯器がない時代なので1年生が薪の釜でごはんを炊いていました。おかずがサンマのときは60本のサンマを焼くわけです(笑)。
中村:食材の買い出しも1年生が学生服姿で行っていました(笑)。合宿所生活は大変でしたが、やり遂げたから今があるのだと思います。

過酷な長野合宿が黄金時代の布石に 

――合宿所生活のエピソードは今の 学生さんには想像もつかないことば かりですね! 他に芝浦工大が強くなった要因はありますか?

田口:毎年長野県の浅間温泉で行っていた春・夏の合宿でしょう。この合宿での特訓がハンドボール部黄金時代の布石になったと思います。10日間の日程のうち、最初の3日間はボールを持たない基礎練習で、うさぎ跳びや匍匐前進など軍事教練に近かったですね。練習中に水分を摂ることがタブーとされていた時代なので、雨が降るとみんな上を向いて口を開けていました(笑)。恐怖の浅間温泉合宿(笑)。毎年脱走者が出ました(笑)。
池田(茂):私は3年次からマネージャーに転向したんですが、脱走者を迎えに行くのが仕事でした(笑)。卒業後もそれが続いて、郷里の山口県に帰って2年目の頃、「おまえと同じ高校出身の選手が合宿から脱走したから迎えに行ってくれ」と連絡が入りました。探してみると確かに山口に帰っていて、彼を東京まで送っていったことを覚えています。
池田(鉄):その選手はハンドボールの実力では国内トップクラスの選手でした。そんな一流選手が耐え切れないほど、合宿が厳しかったということです。

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合宿心得
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1959年度春季合宿日程

世界選手権や国際親善試合で 欧州強豪チームに勝利 

――試合での思い出もお聞かせいた だけますか?

塩川:いちばん印象に残っているのは、1960年に秋田県で開催された全日本総合選手権かな。台風で4日間雨が降りっぱなしで、屋外コートが田んぼみたいになった(笑)。当時の写真を見たら、全員泥だらけですよ。先輩のシューズが脱げて泥の中を探し回ったんだけど、なかなか見つからなかった(笑)。
田口:それでも決勝では大崎電気に勝利して優勝したね。
池田(鉄):芝浦工大が海外チームを日本に招いて、国際親善試合も4回やりました。1回目が世界選手権準優勝チームのルーマニア代表。16対17で惜敗しましたが、「日本にこんなチームがある!」と世界に知らしめました。当時はNHKで全国放送されたんですよ。2回目はフランスのステラというチーム。3回目はドイツ代表。どちらも勝利しました。4回目は中国代表で、日本代表が負けたチームでしたが、芝浦工大は勝ったんです。本当に強かったですね。
田口:海外チームは2m近い身長がある選手も珍しくなかったね。身体の大きさ・厚み・重さ・高さが全然違いました。
池田(鉄):それでも勝利できたのは、日本人選手にスピードと機敏性があったからでしょうね。
田口:テクニックとスピードは遜色なかったね。
池田(鉄):ステラとの試合会場は東京体育館だったんですが、1万人入る会場が満員になった。新聞にも大きく取り上げられたし、すごい人気でした。
田口:世界選手権にも2回出場させてもらいました。1961年は西ドイツ(当時)、1964年はチェコスロバキア(当時)で開催されて、チェコでの第1戦では前回大会7位のノルウェーと対戦し、18対14で勝利を収めました。日本代表が世界選手権で初めて手にした勝利です。今に至るまで日本代表が世界選手権に出場できたのは、たった4回。その中の初勝利は快挙だったと思います。ちなみに、日本代表ではありますが、選手の半分近くは芝浦工大の学生か卒業生でした。
池田(鉄):その後、1968年から始まる学園紛争を機に、新入生を迎えることができなくなり、徐々に優勝から遠ざかっていきました。
池田(茂):東京大学と芝浦工大は学園紛争がひどかったね。
池田(鉄):他の強豪校はさほど影響がなかったんですが。
河村:私は先輩方より20年近く後の時代で塩川さんが監督をされていたチームに在籍していました。当時は2部リーグでした。強かった時代のお話を先輩方からお聞きする機会が多く、とても印象に残っています。

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1959年度春季合宿集合写真

一度経験すると楽しさがわかるスポーツ

――ここで改めてハンドボールという競技の楽しさ、面白さを教えていただ けますか?

池田(鉄): ハンドボールには「走る」「跳ぶ」「投げる」の3要素が全て揃っています。目的に向かってこの3要素をいかに使いこなすかがポイントで、達成できたときの喜びは格別です。
田口: キーパーと1 対1 になり、シュートを打つ瞬間がダイナミックなんですよ。キーパーとのかけひきで、ボールを浮かしたり、股下を狙ったり、顔面の横を通したり。決まった瞬間はたまらないですね。ハンドボールの醍醐味だと思います。
池田(鉄):それになんといっても優勝の喜びが大きいよね。私は選手・監督として何十回も全日本選手権に出場していますが、優勝の喜びを分かち合う瞬間が最高です。
河村: 優勝は2部リーグでも3部リーグでもうれしいものです。ハンドボールは相手選手とのコンタクトプレーもあるし、シュートは本当に快感です。やってみると楽しさがわかるスポーツなので、多くの方に知っていただきたいです。
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1960年8月全日本総合ハンドボール選手権大会にて公式大会 46連
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1964年日仏国際親善試合 フランス・ステラ対芝浦工業大学戦

あの経験があれば、 どんな困難も乗り越えられる

――最後に、ハンドボール部で学んだことで、社会に出られてから役立ったことはありますか?

中村:たくさんありますよ。私は卒業後、企業に就職しましたが、社内の人間関係を乗り切っていくのにハンドボール部での経験がとても役に立ちました。卒業から10年後に独立し、総合建築業の会社を立ち上げたのですが、会社経営はさまざまな困難を伴います。しかし、「こんな苦労、大学時代の合宿に比べたらたいしたことない」と思えました(笑)。あれだけの努力と忍耐をしてきたんだから、どんなことにも耐え切れる。会社経営なんて、金がなければ銀行行って借りてくればいいんですよ(笑)。でも合宿は「待ったなし」ですからね。その場で解決しなくてはならないことばかりで、本当に鍛えられました。
塩川: 私は卒業後もずっとハンドボールに関わり、社会人チームや学生チームの監督を歴任してきました。そこで人を指導し、その成長を見る喜びを実感したんです。人の指導とは、その人のいい面を引き出すこと。選手一人ひとりの身体能力や技術力などを観察し、伸びしろを見つけて指導すると、思ったとおりに伸びてくれる。自分のことだけ考えていた選手時代より喜びは大きかったですね。
河村:私は建築関係の仕事をしているんですが、塩川監督には仕事の案件も紹介していただきました(笑)。
田口:なんといっても工業大学ですからね。実習があるから、私たちも普段は授業に出席し、その後に駒沢グラウンドで練習していました。とにかく忙しいから時間をムダにできない。限られた時間の使い方は社会に出てからも役に立ったんじゃないかな。
中村:私は少し前に難病になり、3か月間入院して、ほとんど車いすの生活を送っていました。病院のリハビリも受けましたが、少し痛みがあるとそこでストップです。「これでは治らない!」と考え、自分なりに工夫してリハビリし、今では2日に1回ゴルフができるまでに回復し、主治医も驚くほど。この精神力も学生時代の部活動で培ったものです。
池田(鉄):現在、私は芝浦工大のハンドボール部の監督を務めていますが、部活動は人間形成の場です。合宿所の心得に、「ハンドボール部の活動は技術の錬磨のみならず、精神と社会的訓練を目的とする」「全ての言動は全日本の覇者たる自覚に基づけ」というものがあります。
全員:ありましたね。
池田(鉄):私たちの一挙手一投足にこの言葉が染み付いている。これこそが大学スポーツの成果だと思います。

(広報誌「芝浦」2022年秋号掲載)