しばうら人 スキー部卒業生座談会

2022/02/03
  • しばうら人

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スキー部卒業生座談会
インカレ総合優勝からオリンピック出場へ!
一時代を築いたスキー部の栄光を語り合う

1960 ~ 1970 年代、芝浦工業大学スキー部は多くのオリンピック選手を輩出した強豪校として、全国に名を馳せていました。 オリンピック選手を含むスキー部卒業生4 名の方が芝浦キャンパスに集い、当時の様子を振り返ります。

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樋口 智美さん
建築学科 1963年卒業
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小川 博司さん
工業経営学科 1970年卒業
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佐々木 信孝さん
建築学科 1973年卒業
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鈴木 謙二さん
工業経営学科1973年卒業

創部わずか5年で学生1部リーグ3位に!

――半世紀以上昔のことですので、芝浦工業大学スキー部がどれほど強かったのか、今ではご存じない方も多いと思います。この機会に広く卒業生・在校生の皆さんに知っていただくために、卒業生4名に集まっていただきました。まずはスキー部の創設から強豪へと成長していった経緯を教えていただけますか?

樋口 スキー部の前身は1957年に小林毅さんが発足したスキー同好会です。翌年には大学からスキー部として認められ、全日本学生スキー連盟に加盟しました。私は1959年に入学しましたが、その年に初参加した大会で、複合種目の部員が活躍し、2部リーグで総合8位になりました。その後もアルペン、ジャンプ、複合、クロスカントリーの各種目にそれぞれ有力選手が加入し、1961年には全日本学生スキー選手権(以下、インカレ)で2部総合優勝。念願の1部に昇格することができました。
小川 スキー競技をご存じない方のためにご説明させていただくと、スキーには斜面を滑り降りる「アルペン」、長距離を走り抜く「クロスカントリー」、ジャンプ台を滑り降りて空中を跳ぶ「ジャンプ」、ジャンプとクロスカントリーの2種目の合計点を競う「ノルディック複合」などの種目があります。さらに「アルペン」なら滑降・回転・大回転など、「ジャンプ」ならノーマルヒル・ラージヒルなどの細かな種目に分かれます。
鈴木 インカレで上位に入賞するためには、各種目で精度高く成績を挙げる必要がありますよね。特にクロスカントリーなどは種目数も多いので、得点源となります。
樋口 その後、1963年にはインカレ1部の総合3位にまで食い込みました。当時は早稲田大学、明治大学、日本大学が強かったんですが、創部わずか5年でその一角を崩せたことは私たちの誇りです。
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佐々木さん、小川さん、樋口さん、鈴木さん( 左から)

自由で平等な雰囲気が個の能力を育てワンチームに!

――なぜ、スキー部は急速に強くなれたんでしょうか? 

樋口 大学がスキー部育成に力を入れたため、スキー強豪校から多くの有力選手が入学してくれました。スキーの有力大学で単科大学は珍しかったですし、工学部があることも当時の高校生に魅力的に見えたのではないでしょうか。毎年のように種目に偏りなく選手が入部してくれて、2部に所属している当時から、「自分たちは1部を目指 すんだ!」という空気がありましたね。 今思うと、練習も信じられないぐらい の量をこなしていました。もともと同好会からスタートしたことも大きかったと思います。新しい部だから上下関係やしきたりが少なく、選手がみんな平等で、自由な雰囲気がありました。
鈴木 本当に樋口さんのおっしゃるとおりですよ。当時の高校・大学などのスポーツ界は軍事教練のような雰囲気が強く、上下関係の厳しいところが多かったですからね。その点、芝浦工大スキー部は個人を大切にし、そこからワンチームを作っていく環境が整っていました。
樋口 新しい部活だからしがらみがほとんどない。自分たちで考えて、いろいろな練習方法やルールを採り入れていました。
鈴木 私は入部するとき、大学の校風や文化を先輩からの情報を聞いて、「芝浦工大なら個の力を出し切れる 」と思ったことを覚えていますよ。当時から欧米のナショナルチームのような文化を持つ、素晴らしい国際標準のチームでした。
佐々木 そもそもスポーツの起源は「遊び」ですからね。楽しくないと続かないですよ。スキーで体を動かすのも楽しかったし、練習の一環で仲間とサッカーをするのも楽しかった。
小川 僕は1966年に入学したんですが、合宿所が整備されてきたことも大きかったですね。朝から晩まで部員が寝食をともにし、トレーニングを積まないことには、とても優勝争いはできませんから。
鈴木 その合宿所でも1年生から4年生まで分け隔てがなかった。選手個人の能力を発揮するためにも、日常生活は重要です。
小川 それにしても学生時代の思い出というのは、社会に出て何十年たっても影響が残るものですね。1部校、2部校の枠をこえてインカレに出場したメンバーで集まる懇親会を毎年北海道で開催しています。当初は樋口さんが音頭を取り、早稲田、明治、芝浦と3大学で懇親を行っていました。今では20校以上の大学が参加しているんですが、当時軍事教練のような合宿生活で練習をしていた大学は先輩、後輩の確執が残っていて、なかなか卒業生の参加者が集まらず、芝浦工大がいちばん出席者が多かった(笑)。これぞ芝浦の結束力ですね。

思い出深い1969年 インカレ1部総合優勝 

――栄光のスキー部の歴史の中でも、小川さん、鈴木さん、佐々木さんが在籍されていた1966~1973年は国内大会はもちろん、オリンピックにも複数の選手を送り出した輝かしい時代だったとお聞きしてます。その頃のエピソードを教えていただけますか?

小川 なんといっても1969年のインカレ1部総合優勝ですね。あのときの出来事はいまだに語り草です(笑)。青森県大鰐温泉で開かれた大会で、ここにいる鈴木くんと今日は出席できなかった古川年正くんが回転種目で同タイム優勝したんです。あれで勢いがついて、総合優勝まで持って行けたんじゃないかな。
佐々木 2本滑って同タイムってあり得ないよね(笑)。
鈴木 インカレ史上初の同タイム優勝と知ったときはうれしかったですね。この快挙にアルペンチーフであった山田敏明さんを中心に全部員がたいへん喜んでくれたことを記憶しています。
小川 佐々木くんもノルディック総合で優勝しましたし。
佐々木 あれは番狂わせです(笑)。
小川 優勝は優勝だよ。まさか自分たちが総合優勝できるとは思っていなかったから、うれしかったですね(笑)。
鈴木 あの大会で印象的だったのは、欧米並みのアイスバーンのコースが初めて採用されたことでした。散水されてスケートリンクのようなコースコンディションでした。
小川 確かにとても印象的だったね。いわゆる「青ごおり」で、個人個人の技術がより問われる状態でした。僕たちは大会直前に合宿した場所がパウダースノーの北海道・ニセコだったから、ギャップが激しくて、選手はよく転倒していました(笑)。その中でも、芝浦工大スキー部はアルペン、ジャンプ、クロスカントリー、ノルディック複合と、幅広い種目で上位に食い込み、総合優勝が決まりました。
鈴木 しかし、種目によって会場が異なっていたので、全員で喜びを分かち合えたのはずいぶん後になってからですね(笑)。
小川 しかも総合優勝が決まったのが、競技から数日たった後だったしね。というのも、クロスカントリーのリレー種目で他の有力大学の選手が出場選手の背中を押すという違反行為があって、スキー連盟理事会で「失格」と認定されたんです。その結果、我々が総合優勝になりました。この話もずっと語り草です。

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1972 年札幌オリンピックで五輪旗手を務める鈴木さん

札幌オリンピックに4名もの選手が出場 

――オリンピック選手も複数輩出された時代でしたね。

小川 当時、すでに冬季オリンピックには我々の大先輩の野戸恒男さんが1964年インスブルック大会、1968年グルノーブル大会に出場されていました。野戸さんは1998年長野大会でアルペンスキーチームの部長で、ヘッドコーチが古川年正君でした。
樋口 古川君は2014年冬季五輪ソチ大会の副団長と2017年冬季アジア札幌大会日本選手団の団長として、活躍していましたね。
小川 1972年札幌大会には、ここにいる鈴木くんと佐々木くん、そして古川くん、柏木正義くんが出場しました。鈴木くんと佐々木くんは全日本チームの合宿によく行っていたね。
佐々木 インカレ優勝後、トントン拍子で全日本チームに入れていただき、札幌大会の出場へとつながりました。
小川 鈴木くんは開会式で開催都市間の五輪旗引き継ぎ式の旗手も務めたよね。
鈴木 出身地の札幌で五輪旗手を務めて、本当に名誉に感じましたし、皆さまに感謝しています。
小川 一つのオリンピックに一大学から4名も選手を送り出せたのは、歴史的なことではないでしょうか。今考えてもすごいことだと思います。
鈴木 当時はメジャースポーツで、今とは比較にならないぐらいスキーヤーが多くて、全国のスキーファンから「芝浦はすごい!」と賞賛されました。メディアも注目してくれましたね。
小川 スキー場で練習していると、周りの人たちがわざわざコースを空けてくれたよね。まるでスターになった気分でした(笑)。

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佐々木さんの1972 年札幌オリンピック参加時のゼッケンや当時 の写真

芝浦で、スキー部で学んだこととは

――卒業後も長く各界で活躍されている皆さんですが、芝浦工大スキー部で学び、社会で役立ったことはありますか? 

小川 たくさんありますよ。卒業した大学の名前は一生ついて回りますからね。ウチの孫なんて、「おじいちゃん、本当に芝浦工大を出てるの?」と聞いてくるほどです(笑)。私が就職した企業でも「芝工卒」はステータスでした。
樋口 今思い返しても、部活や合宿所で団体生活を経験できたことは大きかったですね。協調性やコミュニケーション力が育ち、社会にも飛び込みやすくなりました。そして、きつい練習に耐えた経験や4年間で培った体力は、仕事を一から頑張り抜く原動力になりました。
鈴木 卒業後はスポーツコーディネーターとして、スポーツの発展と普及活動を行いながらのスポーツ振興と社会貢献は私のライフワーク。その一環と して、2030冬季札幌オリンピック・ パラリンピックの招致活動もサポートしています。こうしてスポーツと社会のために長く活動できるのも、大学で培った人間力があるからだと思います。海外に行くとよくわかるんですが、 芝浦工大の自由かつ平等にスポーツを楽しむ姿勢は世界標準でした。国際大会で海外のトップアスリートと話をしていると、その共通点でよく盛り上がりましたよ。
佐々木 社会で役立つことはみなさんとほぼ同じ考えです。僕自身は建築学科を卒業し、設計事務所に就職して長く技術職を続けました。高層ビルの建築現場へときどき行く機会がありましたが、高所恐怖症なもので足がすくみましたね(笑)。ジャンプ台から飛ぶのは平気なのに(笑)。不思議なもので、スキー板をつけていると怖くないんです(笑)。

【スキー部の歴史概略】
1964(昭和39)年~ 1972(昭和47)年
 冬季オリンピック大会日本代表
 アルペン種目
 野戸恒男、柏木正義、古川年正、鈴木謙二
 ノルディック
 田中英一、佐々木信孝
1961(昭和36)年1月
 全日本学生スキー選手権(2部)総合優勝
1969 (昭和44)年1月
 全日本学生スキー選手権 (1部)総合優勝

【 寄稿文 】 

野戸 恒男さん 土木工学科 1966 年卒業

あの時の羽田空港。芝浦工業大学の応援団から激励を受け、羽田空港から見送られた。
1964 年のオーストリア・インスブルック五輪出場のためだった。この年のヨーロッパ各地は雪不足。開催地のインスブルックでは、雪を集めて安全な滑走コースに仕上げるのに大変な作業。我々のチームも練習不足。前哨戦も回転の一大会と大回転の二大会だけの出場だった。滑降の大会はなし。五輪出場の備えには乏しい内容。

私の五輪出場のエントリーは、大回転と滑降の二種目。初めての海外大会で実績も少なく、どのくらいの成績をと、残す術もなし。自分の五輪は、唯々スタートのバーを切り、滑走し、ゴールすることが 一つの望みにとどまった。次なる目標を早く決め、 これからの国内大会での好成績。4 年後の’68 年 グルノーブル五輪を目指し、孤独に耐えて日々の練習が続けられた。学問やスポーツ。趣味であれ結果にこだわらず、納得のいくまでやり抜いてみてはどうだろう。




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1964 年のインスブルック五輪に出場のため、応援団に送られ羽田空港を出発する 野戸さん
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2019 年まで野戸さんが指導にあたっていた中国パラスキー五輪 チーム


(広報誌「芝浦」2022年冬号掲載)