創立者有元史郎の軌跡を巡る
創立100周年である2027年まであと1年となります。第5回は、広島県尾道、西城町、岡山県津山におけるエピソードや最新の調査報告を紹介します。
尾道を巡る 有元史郎生家
有元史郎は1 8 9 6(明治29)年、広島県尾道市土堂町に生まれた。有元家は江戸時代に津山から倉敷を経て尾道に移り住み帆布製造販売の船道具商を成功させ、祖父周二郎※の代には資産家となっていた。1 8 8 3(明治16)年12月に出版された『備後の魁』には、船道具商として有元周二郎が土堂町中浜通りで店舗を営んでいることが記載されている。港から近い中浜通りは乾物屋や船具関係の店舗が立ち並び、尾道で一番の賑わいを見せており、この通りには富豪しか店舗を出せなかったと伝わっている。1 8 9 8(明治31)年に発行された『日本全国商工人名録』による尾道市商業者の欄には、第37位に父である有元益太郎が5 4 . 2円の納税をしている旨の記載がある。
※位置関係を表すイラストマップ


中浜通り入口

備後の魁(各所国産の手引)
尾道尋常小学校
史郎が5歳の時に土堂町の店舗を引き払い祖父周二郎の家に引っ越すが、7歳の時に周二郎が死去。8歳で尾道尋常小学校(旧土堂小学校)に入学。小学校では母親の遠縁にあたるとされる土屋丈之助先生(後の第2代校長)の指導を受けた。先生は史郎に父母のような愛情を注ぎ、大いに慰撫し励まし曲がりそうな子供心を真っ直ぐ導いてくれた篤志家であったと伝記には記されている。
※周治郎と記載された文献もあり
※尾道の山側から海を望む尾道尋常小学校(旧:土堂小学校)

西城町を巡る 西城尋常高等小学校

史郎が14歳の時に、祖母の実家である西城町の土どひ肥家に引っ越し、西城尋常高等小学校1年次に編入学した。当時、瀬戸内海の海運拠点である尾道に比べると西城町は、尾道から出雲へ抜ける出雲街道上の寒村であった。西城町での生活は2年に満たなかったが、史郎にとっては自然豊かな山間部での生活と人々との交流は生涯にわたって心に残っていたようで、結婚後も夫人を連れて訪問し恩師や旧友と交流する記録が残されている。在校時は毎年学業優秀賞をもらっており優秀であったとされ、恩師の宍戸恵作先生がのちに「史郎は、秀才児であり受持教師として自分は常に誇りを感じていた」と述べている。一方ガキ大将との喧嘩話や、同級生にいたずらをしかけていたなど、やんちゃな逸話も残っている。
※西城尋常高等小学校(現:西城小学校)

史郎クラスメイト卒業写真(1911年)

西城町近景
現存する史郎が居住していた元土肥家
蓮照寺中山道 元住職(95歳)ヒアリング内容
「土肥家のことは覚えている。家は当時のまま商店街の一角にある。子供の時、家の前を通ったし、土肥家のお爺さんと一緒に大山に登山したこともある。土肥家は商店街の中の商家で何を売っていたか覚えていない。土肥家は途中で引っ越してしまい今は違う人が住んでいるが、家の一部は史郎がいた時と同じ家屋である。自分の父親が年齢的に史郎と同じ時代の人で小学校は同じ西城尋常高等小学校だった」
※祖母の実家である元土肥家付近(現存)

津山市を巡る

津山は、有元家にとって祖先の郷土であり、美作菅氏の本拠地である勝田郡奈義町付近の主要都市であった。史郎は不幸にして亡くなる1年前の1 9 3 7(昭和12)年8月に、当初津山で計画されていた工業学校建設に対し、その手腕が期待され第4代津山市長として津山市政に取り組んだ。在職2か月という短期間であったが、史郎最晩年に津山で実現しようとした技術研けんさん鑽の学校を建設したいという想いは、市長就任時の挨拶として掲げた9つの方針の一つ「学校並びに教育に関する方針」で述べられている。
※史郎市長就任時の津山市役所(現:津山郷土資料館)
文責:経営戦略室(創立1 0 0周年記念事業・編纂担当)鈴木健一【参考】松尾小三郎編(1 9 3 9年)『故有元史郎伝記』有元伝記編纂所/大倉直(2 0 2 4年)『有元史郎と芝浦工業大学日本近代化の夢を信じた工学者たち』小松書館/亀岡佐七郎編(1 8 8 3年)『備後の魁』農工商技藝/鈴木喜八・関伊太郎編(1 8 9 8年)『日本全国商工人名録』第2版/坂根嘉弘(2 0 2 1年)『尾道の経済と尾道商業会議所(Ⅰ)』広島修道大学学術リポジトリサイト/『西城小学校誌』/篠崎進(1 9 8 5年)『日本の歴代市長第三巻』歴代知事編纂会/大倉徹彦(1 9 9 4年)『岡山県歴史人物事典』岡山県歴史人物事典編集委員会/津山市(1 9 8 5年)『津山市史第7巻現代Ⅱ』津山市役所
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