戦中・戦後の苦しい最中でも仲間や恩師と支え合った学生生活
内田 晃一 さん
1927 年栃木県出身。東京高等工学校附属工科学校から東京高等工学校へと進学し、建築学を専攻。卒業後は建築会社や新聞社を経て、20代半ばからプロのジャズ・ミュージシャンの道へ。さまざまな有名ジャズバンドに参加した後、独立してスタジオミュージシャンとして活躍し、ヴィブラフォン奏者として名声を獲得。2016年にはその功績から文化庁長官表彰を受賞。

戦争の最中で過ごした芝浦工大での学校生活
栃木県鹿沼市で生まれ、小学校2年の時に東京都世田谷区に家族で移り住みました。東京高等工学校附属工科学校(後の芝浦高等工学校附属工科学校:1 9 4 6年廃止)に進学したのは、家業が建築会社を営んでいたこともあり、建築を専門的に学ぶことが目的でした。ただし当時の東京高等工学校(1 9 4 3年から芝浦高等工学校)は、上級学校への進学資格が得られない実業学校です。入学当日にいきなり先生から「入学はめでたいけれど、上級学校を目指せない君たちの進路は高等工学校までだ」と告げられたことを覚えています。これは失敗だったかもしれない、というのが正直な思いでしたね。転校も考えたのですが、親に説得され、附属工科学校で3年、高等予科で1年、東京高等工学校の建築学科で3年と、計7年間通うことになりました。直な思いでしたね。転校も考えたのですが、親に説得され、附属工科学校で科で建築学科で通うことになりました。
上級学校に行けるわけでもないしと、どこか不貞腐れた気持ちで、附属工科学校の頃は勉強熱心な生徒ではありませんでした。それでも学校が英語教育に注力していたことを記憶しています。その後、さまざまな仕事に就く中で、ここで得られた英語力にはとても助けられました。実業学校が旧制中等学校と同じ制度で統一され、私たちにも上級学校の入学資格が与えられるというニュースを先生が大慌てで伝えてきた時のことはよく覚えています。1 9 4 3年の中等学校令に関連する実業学校規程の交付に伴うもので、これは生徒だけでなく先生も一緒になって大喜びしていました。当時の実業学校は、〝インチキ学校〞だと揶揄され、内心では悔しい思いをしていたことも。そんな気持ちが晴れた時は、本当にうれしかったですね。


その一方で、附属工科学校に入学した翌年に太平洋戦争が勃発し、東京高等工学校に進学した頃から戦況が激化。12年次は勤労動員や軍事教練で授業はほぼ行われませんでした。今もある埠頭公園で訓練をしたり、毎日のように鉄砲を持って芝浦の校舎から代々木の練兵場まで34時間かけて往復したりしたものです。2年次の勤労動員では仙台の海軍工廠にクラスの皆で行きました。機関砲などを製造するのですが、材料の鉄が入ってこないのでやることが何もない。故郷に近い宇都宮まで足を運んだりして過ごしましたが、上の先輩が皆、戦地で命を落としていたので、「何年かすれば自分も」という恐怖は常にありました。終戦を知ったのは宇都宮にいた時のこと。その時は「これで死なずにすんだ」という想いでいっぱいでした。
三浦元秀先生の存在が私たちの心の支えだった
当時は主に旧アメリカンスクールの木造校舎を使っていました。創立者の有元史郎先生はすでに亡くなっていましたが、学校の至るところに写真が飾られていたので、名前はもちろんよく知っていました。戦時中には初代理事長の岸本綾夫先生が毎週1回、学生の前で話をしていたこともよく覚えています。先生方の思い出を振り返ると、私がとてもお世話になったのは、三浦元秀先生(後の理事長)でした。教師というより技術者に近い人柄で、手を上げるどころか、怒られたこともない。優しくて多くの学生から慕われていました。戦争が終わって私たちがまず頼ったのも三浦先生です。「これからどうしたらいいですか?」と電話したところ、「戦争は終わったから何も心配しなくていい。9月から出てこい。授業するぞ!」と力強い言葉をもらいました。そこで私たちは宇都宮から東京に戻り、再びキャンパスで勉強を再開するのです。戦禍を乗り越えて状況は一変しましたが、私が気持ちも新たに勉強熱心になった、という訳ではありません。建設会社で橋梁建設のアルバイトをする傍ら、友人とよく街で遊んでいました。そんな日々の中、私たちがよく訪れていたのも、三浦先生の家です。三浦先生の奥様が恵比寿あたりの料理屋で働いていて、よく友人と訪問して、ご飯をご馳走になっていました。振り返ればとても迷惑をかけましたが、当時の学生は先生の家に行こうなんて考えもしません。いかに三浦先生が学生から慕われていたかを示すような思い出です。
多くの人との出会いが7年間で得られた財産に

終戦後の芝浦校舎周辺は、東京湾から乗下船する進駐軍の米軍兵士が多く、私も自然と海外の音楽に馴染みをもつように。その後、ジャズ・ミュージシャンを目指すようになった原体験の一つかもしれません。また学友には後にワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の社長を務める山本徳源氏がいました。〝徳さん〞は当時から英語が堪能で、よく校舎の窓から米軍兵士に話かけていました振り返れば戦争における苦労もありましたが、多くの友人や三浦先生をはじめとした恩師との出会いなど、芝浦で過ごした7年間は人生における大切な時間になりました。学校と同じ1 9 2 7年生まれの卒業生の一人として、これからも芝浦工業大学の発展と数多くの後輩たちの活躍を願っています。
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